Ravenna in Late Antiquity [Early Middle Ages]
Deborah Mauskopf Deliyannis
Ravenna in Late Antiquity
Cambridge: Cambridge UP 2010, xix+444 p.
List of illustrations
List of tables
Preface
Abbreviations
Ch.1: Introduction
Ch.2: Roman Ravenna
Ch.3: Ravenna and the western emperors, AD 400-489
Ch.4: Ravenna the capital of the Ostrogothic kingdom
Ch.5: Religion in Ostrogothic Ravenna
Ch.6: Ravenna's early Byzantine period, AD 540-600
Ch.7: Ravenna capital, AD 600-850
Appendix: tables
Notes
References
Index
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初期中世史上、最も重要な都市のひとつであるラヴェンナの概観。これまでラヴェンナに接近したい研究者は、F. W. Deichmann, Ravenna, Hauptstadt des spätantiken Abendlandes, 5 vols. Stuttgart 1969-89という、記念碑的かつ浩瀚な研究書を手に取る必要があった。しかしながら本書の登場により、適切な分量の英語でラヴェンナの全貌を知ることができるようになった。素晴らしいことである。
なによりもまずラヴェンナは、ビザンツ帝国の地中海政策の橋頭堡であった。いわゆるラヴェンナ総督府(exarchate)がおかれたからである。ビザンツ帝国は地中海の南側の支配のために、カルタゴにも総督府を設置した。総督府はコンスタンティノープルから遠隔操作をするための一種の衛星国家である。ふたつの総督府はマウリキオス帝(582-602)の時代に創設されたが、、カルタゴは698年にアラブ人の手により、ラヴェンナは751年にランゴバルド人の手により解体した。それ以降、イタリアのビザンツ領は、南イタリアに限局されるようになる。
8つの世界遺産を抱えるラヴェンナは、西ローマ帝国、東ゴート王国、初期ビザンツの記憶があちこちに刻印された稀有な都市でもある。402年に首都をこの都市に移した末期の西ローマ帝国も、テオドリックの支配から50年しか継続しなかった東ゴート王国も、第4回十字軍以降衰亡の一途をたどったビザンツ帝国も、往時の栄華を伝える物的証拠は限られている。そしてそのかなりの部分は、このラヴェンナにある。ガッラ・プラキディア廟、テオドリック廟、正統派洗礼廟、アリウス派洗礼廟、サン・ヴィターレ教会、サン・タポリナーレ・イン・クラッセ教会、サン・タポリナーレ・ヌオーヴォ教会、大司教礼拝堂である。建築物そのものにももちろん価値があるが、人目を引くのはモザイクである。
ラヴェンナやアキレイアでモザイクを見て思ったのは、光がなければモザイクの色彩は映えないということである。とりわけサンタポリナーレ・イン・クラッセのモザイク画は緑を多用する美しいものであるが、これは建物の採光性がよほどよくないと、本来意図されていたであろう楽園の雰囲気が出ない。ゴシック建築でしばしば論じられるのと同様に、モザイクというローマを後継した文化装置もまた光を必要としたのかなと思う。
著者はダイヒマンとは異なり美術史家ではなく歴史家。アグネッルス『ラヴェンナ司教伝』の校訂者にして翻訳者でもある。