さらに学びうるものは何か? [Historians & History]
ペーター・シェットラー(芝健介訳)
さらに学びうるものは何か? マルク・ブロック再生(上)(下)
『みすず』2010年8月号、6-21頁&10月号、12-29頁
Peter Schöttler, "Wie weiter mit - Marc Bloch?", Sozial Geschichte online 23(2009)1, pp. 11-50.
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マルク・ブロックはイコンである。壮年であったにもかかわらず、第二次大戦において対ナチス・レジスタンスに参加し、そして1944年6月16日、リヨン郊外で銃殺されたこの中世史家は、「反ユダヤ主義」の犠牲者として、聖人化されている。キャロル・フィンクの浩瀚な評伝においても二宮宏之の遺作においてもそうである。
しかしながらシェットラーは指摘する。ブロックは祖国フランスの愛国者として死んだのであって、親ユダヤ的心情にとらわれていたわけではない。「等身大のブロック」を理解するためには、まずこの「『反ユダヤ主義』の犠牲者」というレッテルを剥ぎ取り、研究者としてのブロックに目線を合わせる必要がある、と説く。当たり前の事のように見えるが、管見の限り、日本でこのことを指摘したのは、『史学雑誌』に掲載された佐藤彰一による『マルク・ブロックを読む』の書評のみである。二宮もまた、ブロックとはべつのあり方で、一種のイコン化しているからかもしれない。
結局シェットラーによれば、「古典的なスタイルで歴史学のあるべき表現法、批判的な思考様式の展開を見事に示している」から、ブロックのテクストを読み直す価値はあるのだそう。具体的には、ブロックが比較史を可能にする歴史事象の概念化を進めたことを評価しているようなのだが、比較史というブロックの産物を讃えるというよりも、彼以前の歴史学に批判的な態度で臨み、その結果として比較史を生み出したブロックの思考に倣えといっているように理解できる。…これは中世史家の視点ではなくて思想史家の視点。中世史家であれば、ブロックが歴史テクストをどのように扱っているのか、そこから何を取り出しているのかにまず関心が向くだろうから。
「Les nobles comme classe de fait」を「事実概念としての貴族」と訳しているが、ブロックが、マルクスではなくデュルケムの階級概念を重視したという文脈を踏まえるならば、「事実上の階級としての貴族」としなければ、著者の言いたいことがはっきりしないのではないか。
ともあれ史学史に関心を持つ人間にとって大切なことをのべる論考である。「等身大の歴史家」を知りたければ、彼が残したテクストで判断されるべきである。コンテクストではなく先ずテクスト。日本の史学史研究がいびつなのは、アカデミズム史学からどれだけ隔たっているか、天皇制をどのように評価しているか、民衆の立場に立った記述をしているかどうかといった、ある特定の思想信条が内包された基準にのっとって歴史学の来し方を描き出そうとするからである。それは確かに一つの基準ではあるが、そればかりというのが気になって仕方がない。例外は大久保利謙。
おまけ。
「ブロックは…またわき目も振らず書評を書いた(亡くなるまでに論評した本は一千冊をこえる)」。
「…加えて大変な数の書評がある。書評といってもむしろ論文といえるものも含まれており、合本すれば四、五冊にもなんなんとするほどの量である。…自発的に彼は書き、それを公にした。第一に、自分のたくさんの講義のリストを作成し、ボックスのカードに覚書を書きつけることによって、つねに記録整理を忘れなかった。第二に講義ノートや論述をきわめて素早くまとまったテクストに変え、まず書評、そして論文、最後に著書のかたちにしていったのである」。
書評大事。