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ロマネスク世界論 [Classics in History]


池上俊一
ロマネスク世界論
名古屋大学出版会 1999年 vi+473+105頁

はじめに
第一章 方法の問題
第二章 プレ=ロマネスク
第三章 思考(1) 芸術的認識
 A.建築・彫刻
 B.音楽
 C.文学
 D.美意識
第四章 思考(2) 知的認識
 A.ロマネスク思想の主要論題
 B.主要概念と方法 
 C.教育課程
第五章 感覚
 A.触覚
 B.聴覚
 C.五官の編成と身体・記憶
第六章 感情
 A.恐怖と苦悩
 B.憎悪と愛
 C.感情世界の組成
第七章 霊性
 A.エリートの霊性
 B.民衆の霊性
 C.両者の関係
第八章 想像
 A.ロマネスク期を代表するイメージ群
 B.想像界の構造
第九章 こころと現実 まとめ
 A.心的世界の諸局面の相互連関
 B.エリートと民衆
 C.心的世界と社会
むすび ロマネスクからゴシックへ
あとがき


参考文献
図版出典一覧
固有名詞索引

* * * * * * * * * *

どの著書にも言えることだが、池上はつねに「全体」を志向する。池上によれば、その体現者はジャック・ルゴフと樺山紘一であり、前者はフランス留学時代の、後者は日本での指導者である。まこと、師匠の薫陶よろしき中世史家である。

「全体」というのは全体史であり、私の知る限り、それはブローデルが常々口にしていた言葉である。全体史というのは、あらゆる事象を全て記述することと同義ではない。そのようなことが個人にできるはずもないし、また、プロジェクトチームを組んだところで、うまく融和するはずもない。新しい事実は絶えず発見されているわけだし、通説の解釈に変更を迫る研究も、数えることすらままならない膨大な専門誌群に発表されている。そのような現実を受け止めたうえで、全体史とは何か、と私たちは問わねばならない。

本書は、人間の精神活動を通じてみた、ヨーロッパ十二世紀論である(池上はロマネスク期を、その述語が通常理解される建築様式の時期に対応させて、十世紀末から十二世紀前半とするが、ここでは諸要素が最も顕著に現れる十二世紀に代表させてみる)。しかしそれは、ハスキンズが唱えた十二世紀ルネサンス論とはいささか異なる。やや乱暴な言い方をすれば、ハスキンズの十二世紀精神論は、イスラム世界からの古代知の受容や地中海世界におけるローマ法実践の復興のような精神の外的枠組みの変化を論じたものであるのに対し、池上のそれは、人間精神そのものが産み出す内的枠組みに集中したものである。どちらかといえば、ヘルベルト・グルントマンらの宗教精神史に近い。もちろん、いずれの態度も、截然と分かれるのではなく、相互作用によって中の葡萄酒と外の皮袋をふたつながら芳醇させているのだから、ただ、強調点が違うだけで一体であると言えないわけではない。

かつてほど心性史という言葉を耳にすることはなくなったが、人文学に携わるものは誰であれ、人間のメンタリティ――それが個人のものであれ集団的であれ――からはずれたところに身を置くことはできない。法も、制度も、経済も、著述も、確かにそれらの中にそれら自体がもつ自律作用を認めることに吝かではないが、そこから人間精神を引き離すことはできない。仮に引き離したとするならば、それはすでに人文学の対象とはならない。そういった意味では、本書は、人文学的中世の根幹を闡明する、中世学者を標榜する全ての者が、目を通さねばならない研究書である。

私などは、全体史を求めるのであれば、その全体に通底するひとつの、もしくはいくつかの束になった、由るべき準拠枠を見出さねば、全体が散漫としてしまうのではないかと危惧する。かつて、ある種の経済学は、生産様式という準拠枠に注目して、従来の歴史像を革新した。もちろん、下部構造が上部構造を規定することを前提とした分析作法に対する批判――現実政治への関わりかたも含めて――は少なからずあり、彼らの歴史像が、現在の歴史学において必ずしも支配的であるわけではない。しかしながら、生産様式に問題があったとしても、何らかの準拠枠がなければ、「全体」像を描くことは難しい。たとえさまざまな場面に触れていたとしても、たんなる歴史エッセイを全体史と言うことはできないのである。本書は、「思考」、「感覚」、「感情」、「霊性」、「想像」という準拠枠を設定する。いずれも、精神の働きの表出であり、池上は、膨大な文献群からさまざまな表現手段に現れたそれら働きを掬い取り、特殊ロマネスク的な性質を探ろうとする。時代の空気に充満していた本質的ロマネスクとは何か、である。修士時代のメモを見返すに、当時の私にはそのように読めたらしい。

では、その解答はとなるのだが、これがよくわからない。池上によれば、ロマネスク期以前にヨーロッパ世界に存在していた「ギリシア=ローマの理知、キリスト教の霊性と倫理、ゲルマンの習俗、ケルトの夢想」という四つの構成要素が、「独特なかたちで融合」している世界がロマネスク世界であり、さらに言えばそれが「ヨーロッパの誕生を画」すのである。もう一ついえば、民衆とエリート――この対比的に捉えられている二つの概念の当否もとりあえずは措こう――の距離の近さもやはりロマネスク世界の特徴であり、それがなぜ近いかといえば、感情の発露が両者の間で直接的間接的にこだまし、「対話」と「調整」を図っていたからである、とする。

「独特なかたちで融合」した具体相は、本書の中で縷々述べられてきた。しかし、初期中世に関心のある向きにとって、池上が前提とした四つの構成要素は、既に自明のものではない。池上の言う「ギリシア=ローマ」、「キリスト教」、「ゲルマン」、「ケルト」という全ての概念がいまやカッコつきの述語となり、再検討の対象となっている。それは歴史概念を本質主義的に理解してきた近代学問に対する反省に棹差し、その結果生まれたのが、ウォルター・ゴファートやパトリック・ギアリに顕著に見られる構成主義的な思考法であることは言を待たない。いずれの概念も、その生成以来絶えず変容し続けるものであり、紀元千年であれ、八世紀であれ、六世紀であれ、池上が措定する四つの概念は既に存在していた。ただし、「ゲルマン」という概念でくくられるものは存在していたが、その内実は刻一刻と変容しており、カロリング期とロマネスク期直前ではその「ゲルマン」を構成する要素はへだったっていたと考えなければならない。したがってロマネスク世界という特異世界をあえて現出させるために重要なのは、四つの構成要素それぞれの特殊ロマネスク期的な実相であり、それらを特殊十二世紀的なかたちに融合せしめたそのシステムであるのではないか、というのがいまの私の心に去来する違和感というかひっかかりの源である。

私の知る限り、書評は以下のとおり。
佐藤彰一『学燈』97-2(2000), 42-45頁
江川温『史林』83-6(2000), 1094-98頁
杉崎泰一郎『紀尾井史学』20(2000), 42-47頁
同『中世思想研究』44(2002), 191-94頁

なぜこの一覧に『史学雑誌』、『歴史学研究』、『西洋史学』がないのか。一つにはロマネスク期研究者の数の貧困があろうが、それだけではないだろう。私見によれば、日本の学会で書評はあまり評価されてはいない。知的にも、また精神的にも、労力のかかる割には、報いられるものが少ないからである。しかしながら、きちんとした書評は、欧語文献の引き写しにしか過ぎない密輸論文とは比べ物にならない価値を持つはずである。書評文化の育たぬ世界は、知的に幼いといわざるを得ない。というのも、書評は、する側だけではなくされる側にも忍耐を要求するからである。貶されれば腹を立て、褒められれば舞い上がるのが人間といえば人間であるが、それがあまりにあからさまであっては、誰も書評などに手をつけようとは思わないからである。書評者と被書評者の堅忍が、学問的公共圏を成り立たせるはずである。

本書は、早い段階で、狭い意味での歴史学、つまり一般史学の枠を超えた書評会がもたれるべきであった。分析概念、具体的事実、研究史の追跡、異なる分野の結果の組み合わせ方、いずれをとっても見るべきものはあるし、また再検討の対象となりうる。十二世紀の精神史像のみならず、誰もがしり込みする「全体史」へと怯むことなく志向する池上の精神のあり方を解剖する意味でも、興味の尽きない著作である。なお池上は、2007年3月、本書を上回る十二世紀論を上梓する。既出論文を大幅に書き換え、新稿も加えた霊性論である、という。ロマネスク世界論とのかかわりにおいても、十二世紀研究者には必読の書となるだろう。


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