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中世の妖怪、悪魔、奇跡 [Literature & Philology]

中世の妖怪、悪魔、奇跡.jpg
クロード・カプレール(幸田礼雅訳)
中世の妖怪、悪魔、奇跡
新評論 1997年 vi+527頁

序論
第1章 宇宙図と想像の世界
第2章 旅とメンタリティ
第3章 旅、物語、神話
第4章 妖怪の分類学
第5章 妖怪、言語、イマージュ
第6章 妖怪の概念
第7章 妖怪の機能と魂
第8章 結論 私の終わりは私の始まり

訳者あとがき
原註一覧
参考文献一覧
図版出典一覧
索引

Claude Kappler
Monstres, démons et merveilles à la fin du moyen âge
Paris: Payot 1980

* * * * * * * * * *

図版が多いのですぐ読み終わると思ったが、結構ボリュームがある。

「異なるもの」を形態論的に分類するのはフランスの美術史の得意とするところである。アンリ・フォション、ユルギス・バルトルシャイティス、ルネ・ユイグなどはそれで名著を生んだし、本書もまた、そのフランス流にのっとっている。著者は文学畑であるようだけれども。

しかしながら、われわれが「異なるもの」とするものもまた、中世においては神の生みだすこの世の秩序の賜物であったことは忘れてはならない。16世紀ではあるが、アンブロワーズ・パレが説明する妖怪の発生原因として、「第1の原因は神の栄光である。第2は神の怒り。第3は精子の過剰。第4は精子の過少。第5は想像力。第6は母胎の狭小。第7は母親の姿勢。第8は妊娠中の母親の腹に加えられた打撃や、転んだときの衝撃。第9は遺伝的な、あるいは偶発的な病気。第10は精子の腐敗。第11は精子の混合。第12は入り口にいる意地悪な乞食による魔術。第13は悪魔の仕業」(354-55頁)をあげる。つまり「異なるもの」を発生論的に理解することも可能であるし、少なくとも中世のエリートたちはそのように理解していたというのが現実であろうか。

形態論的理解と発生論的理解は対極にある。美術史は前者を好み、思想史は後者を好む。いずれも、すべてを収集し分類し、秩序付けるというコレクション・メンタリティと深くつながっているように感じる。感じるだけではだめで、証明しないと学問にはならないけれども。

中世末期の怪物といえば必ず引かれるのが、ニュルンベルクのハルトマン・シェーデルによる『ニュルンベルク年代記』の挿絵である。これについては立派な論文がある、
菊地原洋平「西洋中世における架空種族論の集大成―ハルトマン・シェーデル,『年代記』(1493)の考察―」『生物学史研究』76(2006年)17-39頁

私はこの論文を駒場の研究書庫でコピーした。三つ言っておきたい。ひとつ、なんでコピー機に酸性再生紙を使うのか。酸性紙は数か月で紙が焼け、数年もたてばボロボロになる。ふたつ、なんでA4の紙を縦置きに固定するのか。これは定型外の拡大縮小をする時に非常に困る。みっつ、なんで片面コピーしかできないのか。短い論文なら良い。がしかし、結構なボリュームのある資料などを大量に複写した際、片面だと保管のために単純に二倍の容積が必要となる。研究書庫はテストのために大量にノートをコピーするような学部生風情が立ち入る場所ではない。以上三点を改善したところで何の不都合もないと思うのだが。そもそも駒場の教師や院生は以上の惨状に何の不満もないのだろうか。
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