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越境する西洋中世 [Medieval History]

越境する西洋中世.jpg
土橋茂樹編
特集:越境する西洋中世(『中央評論』266号)
中央大学 2009年 12-61頁

巻頭言:越境する西洋中世(土橋茂樹)
前と脇から見た西洋中世(高橋英海)
イブン・ファドラーンの視線(小澤実)
中世を旅する女性(久木田直江)
墓場で踊る越境者たち(杉崎泰一郎)
中世から見た近代(桑原直己)
17世紀の音楽的宇宙論(名須川学)
越境する知をささえるもの(草生久嗣)

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『中央公論』じゃございません。中央大学の機関誌です。

巻頭言、そして寄稿者の何人かは、あきらかに西洋中世学会を意識している。寄稿者の専門は、高橋がシリア文献学、小澤が北欧中世史、久木田が中世英文学、杉崎が西洋中世史、桑原が霊性史、名須川が近世思想史、草生がビザンツ史である。狭い意味での歴史学は小澤、杉崎、草生の三人であり、西洋に限定すると杉崎のみとなる。編者の土橋は、教父学の専門家である。

白眉は名須川論文。17世紀だから中世とは関係ないと思われるかもしれないが、読めばわかる。これまでの中世研究が、いかに「音楽」を軽視してきたのかが。中世史で自由学芸7科を知らないものはいないだろうが、その一つは「音楽」。といっても、バグパイプでぴーひゃらといったような世俗のものではなく、音階によって神とその創りし世界の秩序を映し出すハルモニアとしての「音楽」である。音楽学ではなく思想史であり、百年戦争の終結とコンスタンチノープルの陥落という政治事件に基づく中近世の分断が、いかにヨーロッパ精神史にとって無意味かもよくわかる。なお、一箇所残念な誤植がある。

しかし、もっとも印象的な文章は、高橋のもの。

「大学に進学して西洋古典学をやっているつもりになっていた頃は、歴史はコンスタンティヌス大帝で終わるものと考えていた。近現代などというものは新聞を読んでいればわかることであって、学問の対象にするようなものではない、中世や近世はもう少しましだが、そんなものは古典期のラテン語やギリシア語がきちんと読めない連中がやるものだ、と」(19頁)。

かっこよすぎる。しかしここで切ると物議をかもしそうなので、その後に続く文章も掲載しよう。

「(職場の同僚のお叱りを受けないように断っておくと、これはあくまでも四半世紀近く前の話である。いまでは近現代の研究にさえも多少の価値は認めている)」。

「多少の価値」!古典学者はこうでなくてはならない。しかし続く文章では、卒論ではキリスト教時代のラテン文学、修論ではプルデンティウス(348-413)の詩、博論では13世紀シリア語のバルヘブラエウスを扱ったと述べる。「西洋中世」ではないが、「多少の価値」を認めるにやぶさかではない中世であることには変わりない。レトリカルな文章は最後まで読み込まねば、書き手の意図を誤読する。

この高橋英海、中世フランス文献学の松村剛、中世ラビ文献学の勝又直也、ルネサンス思想の平井浩は、日本で言う通常の学者とは別次元にいる。彼らの基本的な仕事は欧語(全員学位は海外で取得)なので、専門を越えて彼らの名前が知られることは少ない。しかし、彼らのようなやり方が本当の学問というものである。大学や文科省は、こういう人たちをもっと大事にすべき。彼らがマスコミ受けするサントリー学芸賞をとることはないだろうが、日本学士院賞日本学術振興会賞には相応しい。賞の価値は受賞者の質によって維持されるという当たり前の事実を踏まえるならば、彼らが受賞することは賞の質的維持のためにも不可欠である。いいものをいいと判断できない人間は、そもそも学者としての適性がない。

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