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歴史学 [Historians & History]

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佐藤卓己
歴史学(ヒューマニティーズ)
岩波書店 2009年 141頁

はじめに 余は如何にしてメディア史家になりしか

1.歴史学ゼミナールの誕生 歴史学はどのように生まれたのか
2.接眼レンズを替えて見る 歴史学を学ぶ意味とは何か
3.歴史学の公共性 歴史学は社会の役に立つのか
4.メディア史が抱え込む未来 歴史学の未来はどうなるのか
5.歴史学を学ぶために何を読むべきか

おわりに 「ため息の歴史家」になりたい

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近ごろの岩波は学術書ではなく啓蒙書の専門店となったらしい。『ゴシック世界の思想像』だの『異端カタリ派の研究』だの『初期フランク史の研究』に類する作品は、もはやでないのだろうか。

著者は1960年生まれ。現在京都大学教育学部の教授。年齢は中堅だが、多作である。わたしは『キングの時代』ではじめて佐藤を知り、その後モッセの翻訳も含めて、ほとんどの著作を読んだ。てっきり日本史の専門家だと思っていたが、西洋史出身だということにも驚いた。

いってみれば史学概論である。しかし本来そのようなものは、林健太郎がそうであったように、功なり名遂げた大御所が書くものであり、まだ成長途上の歴史家が物すものではない。そのあたりは著者自身もよくわかっていて、体系的かつ俯瞰的な史学概論ではなく、局所的かつ体験的な歴史家のメチエを紹介しているに過ぎない。だから、前者のようなものを求めて読み通した人はがっかりするだろう。

わたしはがっかりしなかった。佐藤自身の歴史学に関心があったため、彼の個人史を知ることができたからというのもあるが、本来各大学の史学科で講じられる史学概論とは、こうあるべきだと思っていたからである。通常の史学概論とは、だいたいランケ以来の歴史学の歴史をたどるのが常套である。少なくとも私はそのような教育を受けた。しかしながら、それは学生に対してちょっと不具合なんじゃないかと思うようになってきた。史学科の学生は卒論を書かねばならない。そのような初学者にとって一番いいのは、史学科の先生が、自分がいまやっていることを、つまりどのようにして論文を書くのかを、見せることではないか。

もちろん史学史が不必要と言うわけではない。むしろ専門の史学史の講座すらない今の日本には必要な学問である。史学概論は、史学史と歴史家のメチエに分割し、前者を専門の史学史家が担当し、後者は史学科の各教員が1,2回ずつ担当すればよい。史料論が魅力だと思っている教員は史料論を、世界システム論に意味があると思っている教員は世界システム論を教えればいいのである。体系的ではないかもしれないが、卒論などと言うのは、身近な教師の情熱にほだされてああそういうものかと勢いで生み出すものである。教師がきちんと仕事をしていれば、少なくとも史学科の学生はついてくるものだと思う。教育教育とうるさいが、研究のできない教員に専門教育はできない。これは厳然たる事実である。学生にこびて講義内容のレベルを下げる必要など全くない。

もう一点、あえて「史学科の各教員」と書いた。つまり、西洋史の人間も日本史のメチエを、東洋史の人間も考古学や美術史のメチエ、少なくとも導入段階で体験しておくべきである。私は西洋史だから東洋史のことはわかりませんでは困る。歴史学は何を対象としたとしても、データの分析に終始する。他の地域をフィールドとしている人間が、どのようなデータの取り扱いをするのか、知っておくことは無駄ではない。無駄ではないどころか、必須である。「西洋史」とか「東洋史」といった特殊日本的学問だけを修めて「歴史家」を名乗るのは、どうかと思う。

といったことを考えていたので、本書は私には面白かったのである。他の歴史家であれば、本書とは別の「歴史学」を書くことになるだろう。

ところで西洋史から日本史にフィールドを移すというのはどういう感じなのだろうか。著者のテーマは近代のメディアであるから、日本を扱う場合、特に特殊な訓練を必要とするわけではない。仮に佐藤が西洋史家のままであればオリジナリティのある作品を、それも誰も触れたことのない史料を用いるという歴史家にとって最大の喜びを伴いながら、これほど量産をすることは不可能であったはずである。佐藤は自分のやりたいことを追求していくうちに自然とこのようなスタイルとなったのであろうが、欧米の巨人を仰ぎ見ながら遅々として筆の進まない西洋史家としてはうらやましくもある。

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