ユーラシア諸宗教の関係史論 [Medieval Spirituality]
深沢克己編
ユーラシア諸宗教の関係史論 他者の受容、他者の排除
勉誠出版 2010年 307頁
緒言 深沢克己
序章 他者の受容と排除をめぐる比較宗教史 ヨーロッパ史の視点から(深沢克己)
第1章 中近世日本の在来宗教とキリスト教 「天道」思想を中心に(神田千里)
第2章 改宗・異教・宗教 明治前期のキリスト教をめぐって(山口輝臣)
第3章 中国近代の民間宗教結社とキリスト教 対立の構図を超えて(武内房司)
第4章 日常性の中の「他者」化 南タイの暴力事件におけるムスリム-仏教徒関係(西井凉子)
第5章 オスマン帝国とユダヤ教徒(宮武志郎)
第6章 オスマン帝国におけるギリシア・カトリックのミッレト成立 重層的環境における摩擦と受容(黒木英充)
第7章 漂着聖女信仰とユダヤ教徒 チュニジア、ジェルバ島の事例から(田村愛理)
第8章 中世末ロシアにおけるカトリックの受容と排除 ノヴゴロド大主教ゲンナージーの文学サークルを中心に(宮野裕)
第9章 近世ドイツ語圏に見られるトルコ人・ユダヤ人観 ルターを中心に(森田安一)
第10章 「クリスチャン」と「異端」のあいだ 17世紀イングランド教会とイフライム・パジット(那須敬)
執筆者一覧
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歴史学も宗教はやりである。宗教から読み解く…といったふうな書物が、選書や新書というかたちで書店の棚に定期的に並べられている。わたしが知りたいと思いつつも自分ではおいそれと手を出せない分野であるので、大変ありがたい。
本書を手に取ったのは、ユーラシアや宗教といったキータームに惹かれたこともあるが、そもそも論文集を編むとはどういうことかを考えてみたかったからである。深沢は同時期に、深沢克己・桜井万里子編『友愛と秘密のヨーロッパ社会文化史 古代秘儀宗教からフリーメイソン団まで』(東京大学出版会 2010年)という論集も編んでいる。こちらの目次は、
緒 言(深沢克己)
序 章 友愛団・結社の編成原理と思想的系譜(深沢克己)
第1部 友愛団の宗教史的文脈
第1章 エレウシスの秘儀とオルフェウスの秘儀(桜井万里子)
第2章 秘儀・啓示・革新(千葉敏之)
第3章 中世ブルッヘの兄弟団と都市儀礼(河原 温)
第4章 彗星、世界の終末と薔薇十字思想の流行(ウラジミール・ウルバーネク)
第5章 ヨーゼフ寛容令と「狂信者」(篠原 琢)
第2部 友愛団・秘密結社の諸形態
第6章 マルタ十字から赤十字へ(西川杉子)
第7章 フリーメイソンの社交空間と秘教思想(深沢克己)
第8章 秘密結社と国家(勝田俊輔)
第9章 戦間期フランスの亡命イタリア人とフリーメイソン(北村暁夫)
あとがき(桜井万里子)
この二冊の高水準の論文集を読み通して思ったのは、深沢の総論がいずれも密度が高く有意義だ、ということである。歴史学者は、他の論文に関心がなくとも、ここだけでも読む価値がある。ただしこの素晴らしさは、序論の強度があまりに高すぎると、場合によっては後の論文をくってしまうこともありうることを示している。論文集をまとめるにあたって序論をどうするかというのは一つの重要なポイントだと感じた。
中世史家として興味を引かれたのは、宮野論文と千葉論文がいずれも「コンスタンティヌスの寄進状」にまつわる問題に触れていたことである。中世におけるコンスタンティヌスの位置についてはいずれ自分でも整理してみたいと思っていたのだが、この偉大なるキリスト教ローマ皇帝が後の時代に流し込んだ問題系は、わたしが考えるよりも遥かに深いものだということが徐々にわかりつつある。
また、篠原論文や西川論文では、「過ぎ去らない中世」とでも言おうか、近世から近代のヨーロッパ世界において、フスや騎士修道会といった中世の「遺物」が、その装いをかえ、政治世界の中に生き延びている様がよくわかった。もちろんそこは論文の主眼ではないが、中世史家としては、すこぶる興味を引かれるのである。なお、西川が文献引用していたJohathan Reily-Smithは現役のマルタ騎士修道会員だったような。
深沢は、『友愛と秘密のヨーロッパ社会文化史』序章の註6において、二宮宏之の著名な論文「フランス絶対王政の統治構造」をさして次のように論評する。
「この論文は、その後、二宮宏之『全体を見る眼と歴史家たち』(木鐸社 1986年)、同『フランス アンシャン・レジーム論 - 社会的結合・権力秩序・叛乱』(岩波書店 2007年)にくりかえし再録された事実が示すように、フランス近世史にとどまらず、日本の西洋史研究に幅広い影響をあたえた。もしも高橋幸八郎『市民革命の構造』(お茶の水書房 1950年)を旧約聖書にたとえるならば、二宮のこの論文は新約聖書に相当すると考えてもよいだろう」(25頁)。
以前のエントリで、イコン化している二宮に批判的な言辞を残したのは佐藤彰一くらいではないかと述べたが、深沢の論評はさらに強烈であった…。教義の枠組みにとどまる人は、当該論文に対して批判はできず、注釈をするのみ、ということでしょ。
個人的な感想を申し上げれば、二宮のこの論文は名論文である。以前から動態的ではないという批判はあったけれども、それを差し引いたとしても、支配や統治だのに関心のあるすべてのものが読んだほうが良い(というか読んでいて当たり前の)文献である。