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日英中世史料論 [Medieval History]

日英中世史両論.jpg
鶴島博和・春田直紀編
日英中世史料論
日本経済評論社 2008年 xiii+397頁

まえがき(鶴島博和・春田直紀)

序論 史料論の確立と国際比較への途 熊本シンポジウムの意味(森本芳樹)
第Ⅰ部 書状と権利証書
第1章 安堵状の形態と機能(近藤成一)
第2章 チャーター、告知文書、そして手紙 「征服」前のイングランドにおける文書史料(アン・ウィリアムズ)
第Ⅱ部 統治と文書
第3章 鎌倉幕府の成立・展開と武家文書(高橋一樹)
第4章 自らに語る 1154年から1216年におけるイングランドの王国記録とアンジュ一朝諸王(スティーヴン・チャーチ)
第Ⅲ部 生死の記憶と規範
第5章 生死の新規範 往生伝の成立(上川通夫)
第6章 死と記憶 アングロ・ノルマン・イングランドにおける『命の書』(ウィリアム・エアード)
第Ⅳ部 土地と調査
第7章 荘園土地台帳の内と外(春田直紀)
第8章 他者に語る ドゥームズデー審問 (デイヴィッド・ロフ)
第Ⅴ部 記録と文書庫
第9章 文書・帳簿群の分置システムの成立と展開 高野山金剛峯寺の場合(山陰加春夫)
第10章 カーチュラリーの世界 保管と記録(鶴島博和)
終論(村井章介)

あとがき(鶴島博和・春田直紀)
参考文献
索引

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2001年4月に熊本大学で開かれたシンポジウムの記録。7年越しの刊行である。

西洋中世史では、史料類型論という研究分野がある。国や地域が違っても、同じタイプの歴史史料は存在し、史料類型論はその比較を可能にする。本書のポイントの一つは、じつは日本史学にはこの史料類型論にあたるものがないことを指摘した点であった。もちろん日本史学も古文書学のように長い歴史を持つ史料操作の術は蓄積されている。しかしながら、史料を分析するにあたって、たとえば西洋の国王証書でいうところの、「挨拶」であるとか「措置部」であるといったような、分析タームがない。また「死者記念帳」とか「所領明細帳」といった史料類型を表す言葉もない。もちろんそれに相当する史料はあるのだが、西洋のように地域間の比較を前提としたメタレベルの分析タームがないのである。それがこの会議での意思疎通を困難にしていたという指摘はまことに正しい。

旧制高校時代のように、日本のことをやるにせよ東洋のことをやるにせよ、西洋学の知識を持つことが前提とされていた時代であれば、今のような混乱は起こらなかったのかもしれない。日本史の世界で英語やドイツ語に通じた人がどれだけいるのかは知らない。ただ、仮に海外で日本の史料を紹介するようなことがあるならば(ぜひやるべきだが)、史料類型論は押さえておかねば話にならないし、まともな比較研究は不可能である。日本史の人間はどう考えているのだろうか。少なくとも日本史の世界ではタブーとなっている平泉澄は、そういった意識があった。

本日たまたま日本語学の専門家の発表があり拝聴。「今使われた文法用語はすべて英語に置き換えられますか」と聞くと「できる」という。しかし連体詞は「rentaishi」だそうだ。それは英語ではないと思うが、連体詞は日本語に特異なパーツなので仕方がないらしい。

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